令和2年度の見学研修は、
part1座学編(10/9)では見学建物の背景を知り、
part2実地編(11/5)で実際に建物を自分の目で眺め、
五感で感じて、多くの発見がありました。
新型コロナウイルス感染の予防対策として、座学はzoomのオンライン配信(参加者28名)で、
瀬口哲夫氏(名古屋市立大学名誉教授・工学博士)の講義を拝聴しました。
実地編は南山寿荘(なんざんじゅそう)において、参加者20名を、
1班・2班と半分に分け、見学時間をずらす配慮がされていました(途中参加者1名、合計21名)。
Part1座学編は、八事の観光開発について、現在は高級住宅地ですが、
それには理由があるということでした。
中心人物は、愛知郡長を務めた笹原辰太郎で、開発が実行に移されたのは、
大正12(1923)年の八事耕地整理組合設立からでした。
組合長は後藤幸三、副組合長は笹原辰太郎でした。
大正14(1925)年、南山耕地整理組合が設立認可を受けました。
区画整理としては、八事土地区画整理組合(大正14年)、
音聞山(おとききやま)土地区画整理組合(昭和2年)がありました。
これらの2つの耕地整理組合と2つの区画整理組合からなる開発面積は、約400町歩(120万坪)。
八事山の風光を生かし、道路も直線ではなく地形に沿って屈曲しており、
大きな邸宅が建ってきました。
風致地区を指定することで、地域の自然美の維持・保全が可能になるという瀬口先生の言葉が強く心に残りました。
Part2実地編の最初は「南山寿荘(なんざんじゅそう)」見学です。
この建物は、昭和美術館(昭和53年)を開館した後藤幸三の住まいでした。
もとは江戸時代末期・天保3(1832)年に尾張藩家老、渡辺規綱(わたなべのりつな)の別邸として熱田区堀川端に建てられていましたが、
昭和11(1936)年に現在地に移築し、間取りの一部変更などを行い、住み易くしました。
まず、玄関を入った応接間は、元来、懐石料理を整える台所であった場所を、
飛騨高山古民家の部材を使って変更した民芸風の造りです。
1階茶席は「捻駕籠(ねじかご)の席」と呼ばれ、移築前の堀川端では高い柱で傾斜地に建っていて、
茶席部が浮いているように見え、さらに川に沿ってねじった間取りでしたが、
その姿を再現していました。
特徴として、普通は露地に設ける「腰掛待合」が、建物内部にあること。
また、にじり口に至る廊下は窓が大きく屋外を感じさせる露地の役割を持たせていること。
茶室内の床に向かって左手柱は上部30cmを残し切ってあり、
袖壁がなく、空間の広がりを演出していました。四畳中板入りの席で、
床前の1畳部は貴賓客用として天井を区切り、竹材の網代天井とし、
にじり口に近い2畳は一般客用で化粧屋根裏仕上、点前座1畳は天井を下げ、萩の簾天井(すだれてんじょう)でした。
2階の広間は、武家の書院造で、9畳・10畳の続き間・水屋があり、
南の縁側から見える庭園は、枯流(かれながれ)を造り、池へとつなげた水辺の風情でした。
武家茶人で知られた渡辺規綱の茶名は又日庵(ゆうじつあん)と号し、実弟は裏千家11代家元玄々斎(げんげんさい)でした。
欄間の扇面のデザイン等に関わり、襖の引手は裏千家の替え紋である「つぼつぼ」を
模範にしていました。水屋の天袋の板戸は、後藤氏によるもので、
木目を生かして山脈を表現するなど意匠へのこだわりを感じました。
その後は南山学園講堂・南山学園ライネルス館・南山学園ピオ十一世館・カトリック南山教会聖堂の見学をしました。
南山学園ライネルス館の設計者はマックス・ヒンデルで、昭和7(1932)年に竣工、
学園最初の中学校校舎本館でした。
道路に面して南正面を向け、北側背面にはグランドを設けたRC造3階建。
南面玄関上部の水平庇を4本の円柱で支え、外壁は黄土色の人造石仕上、
パラペットには山形の切込みを取り、窓が整然と並ぶシンプルな建物でした。
内部は約1.4m高さまで床と同じ色合いの濃茶色の腰羽目板張り、
壁上部と天井は白漆喰塗りと落ち着いた造形でした。
校舎群は用途の変更等で、増改築や新築をしましたが、
デザインは最初の意匠を継承し、新しい要素を付け足すという手法がとられ、
全体の建築群は統一性がありました。
これらの建築探訪では設計を学ぶ基本である、すばらしい建築を見ることができ、
とても感動しました。